明治8年(1875)~昭和36年(1961) 愛知県清洲町 竹田家に三男として生まれる。母の名は ゑい。
(ゑいは、初代金之助の実の姉なので三郎は甥だが、幼い時に父金平が養子とし、後に娘と結婚後、分家した。三郎は初代金之助の甥であり、途中は義弟、後に娘婿となった)
神野新田開拓の最初から従事し、現地に住み、生涯その発展に尽瘁した。
昭和32年(1957)4月14日 神野三郎翁頌徳碑建立。
神野三郎伝より、頌徳碑の碑文を下の動画で音声再生してますので再生してください
神野三郎翁頌德碑の碑文
神野三郎翁は明治八年尾張清洲の竹田家に生る。 明治二十六年神野新田干拓の企画成るや初代神野金之助氏に伴はれて現地に来り諸般の施設工事に参画してその機宜に適する才幹は斉しく衆の認むる所となる。 就中神野金之助の附托最も厚く遂に望まれて氏の女婿となる。 乃ち居を当地に移し新しく小作農民と計りて当時至難とせられし干拓の業務に専念せらる。 明治二十九年以降二十七年の永きに亘り神野新田産業組合長として挺身成績の向上に尽さる。 昭和二十一年春翁は地主側を説きて翁多年の宿願たる自作農創設を提唱し第一次農地改革法に基き全国に率先して耕地六百五十余町歩を解放して五百有余戸の自作農家を実現するに至る。 誠に偉大なる業績と言うべく翁も亦精魂を傾倒せる新田干拓に対する終極の業志を完遂せられたりと言うべし。 時方に翁天寿八十二歳にして尚矍鑠たり。 吾等自作農者相図り慈父の如くに敬慕せる翁の頌徳碑を建つる所以のもの亦以て翁の徳を称へ翁の功績を後毘に伝へんとの微衷に外ならざるなり。
昭和三十二年四月建之 神野新田自作農創設者一同
神野新田開拓百年記念誌より
神野三郎翁頌德碑
神野三郎は、明治8年(1875)5月28日に生 まれ、昭和36年(1961)4月30日に満86才の生涯を終えた。神野三郎翁頌徳碑は、神野新田農民の手によって建立され、昭和32年(1957)4月14日に、神野新田土地改良区(理事長河合陸郎)主催で除幕式が執行された。
神富神明社境内に並んで建てられた神野金之助翁頌徳碑及び富田重助翁頌徳碑と向い合っており、ちょうど三者が話し合っているかの様な配置の妙である。これを見るとき、常に思い出すのは、「神野三郎伝」のなかの大須賀初夫の次の文である。神野三郎が生涯の中で一番大きな感化を受けたのは、念仏者金之助術だったらしい」「金之助翁の没後は、重大事に直面することに、必ず故翁の写真の前に端坐瞑想して、あたかも生ける金之助翁に相談するかの如く、心ゆくまで沈思黙考して,決心のつくまでは着手しなかった」神野三郎翁顕徳碑の篆額は、大日本報徳社社長河井弥八の筆である。
神野三郎は十八歳の若さで神野新田の建設の当初から参加し、生涯をその発展に尽した。次に引用する「小作人心得書、農事奨励法」は「神野新田事務所、神野三郎述、明治39年(1906)8月発行」と奧附され た30ページのパンフレットの一部である。神野三郎30歳の時の刊行物で「新葉舎類聚」に掲戒されているものである。第一部「小作人心得書」は事務取扱方、事務、勘定払日、肥料金、選種、苗代、田植、アゼ、草除、ウンカ駆除、道、稲の種類届、小作提米、引方、農事奨励、農事試験場、の十六項目にわたって懇切に説いている。第二部「堆肥緑肥奨励法」では次のように説いている,
「当新田は開拓してから13年になりますがまだ7・8年までは汐気があるので、米のとれぬ田が余程ありしが、此頃は大がい汐枯のせぬ様になりたり。其のかはり塩分作用のために(海の時の肥は残らず吸上げられし故)此2・3年は純粋の無肥料地となりました。是からみなさんの丹精で追々土地のちからが出来、米の収穫も増します 時代になりました。
然るに金肥は年々高くなりまた一年毎に均して入れれはききめが見えませぬゆえ、米を沢山収穫しても勘定に合はぬ様になります。其ゆえ金のかからぬ肥を作り、其補ひに金肥を使ふより致し方ありませぬ。此度金のかからぬ堆肥(つみごえ)や緑肥をつくる奨励法を設けて、 3年間続けていろいろみなさんに補助しますから、成るだけ勉強して下さい。然るに当新田に住む小作は外々と違ひ、作地が割合に多いのですから、とても堆肥では出来ぬ人とあります。其ゆえ堆肥の足らぬ所へは緑肥を入れるのです”紫雲英(げんげ)を作りますれば、一反歩に出来た紫雲英が上出来なれば三反歩、中位でも二反歩の肥にはなります。まだ足らぬ所へはワラの外積をして、一番打の前に振ってすきこむ様にし、成るべく金肥の入らぬ工風(ふう)をしなさい。堆肥、緑肥、泥肥などは其年に効く残りが二割位はありますが、其年に効くだけが金肥にくらべると骨折を勘定しても余程安くつきます。
一、堆肥を作る人には毎年5月と10月に届出しだい検査して千貫目(ワラなれば凡そ百束位)に金二円づつ補助します。併し
出来工合により、補助の金にちがひがあります。
一、堆肥小屋を新しく建てる人には木、竹、瓦の代金を作り方により3年より7年までの間に返金する無利息年賦にて
貸します。(中略)
一、田の裏作に紫雲英,青刈大豆を作る人には、まきつくる種をあげます。
一、紫雲英を作る田の肥料として,まき場一反歩に金1円50銭または其代金に当たる肥を補助します。
一、青丸大豆を麦作の無い田に作る人には、まき場一反 歩に金70銭または其代金に当たる肥を補助します。
「農事爽励法」は続いて紫雲英、青刈大豆の栽培法を詳述し「紫雲英の種まきは秋の彼岸入より15日間位の内、一反歩に3升位をまきつけること。まき方は稲の穂先がたれてから水を干して1・2日間を置き、種を一晩水に入れてふくらまし.ワラ灰をまぜてまけばカサがふへてまくに楽で、また芽をよくきります。まきつけをしてからは必ず水を引入れてはなりません。また稲をかりたれば直に雨水のたまらぬ様シケ抜を掘り、水落をよくせねばなりません。11月中に箱よけの為にワラ二、三十束を三つ切位にしてみるべし。肥料は一反歩に付、過リン酸5頁目、ワラ灰15貫目位、しもごへ4・5荷、ワラ灰はワラをふる前に、朝露の葉にない時ふるべし」と懇切丁寧に、手をとるようにして指導しているのである。また「共同苗代規定及奨励法」では「誠に苗代を作ることはみなさんの第一に気をつけねばなりません。依て此度当事務所に於て共同苗代の定めを設け、各組々共同して苗代の改良をする事に致しましたゆへ、此規定に記ぬ事は組々で定めを作り、決してわがままの事をせぬ様に、互ひにたすけ合ふて改良のできる様につとめらるべし。一になへ二にはこやしに三手入れ四に虫とればいつも豊年......」と述べている。
農地解放によって形式的には、神野三郎は神野新田と無縁となったが、心は離れなかった。多年、その維持管理に腐心した神野三郎にとって、神野新田に在住する河合陸郎が昭和22年(1947)5月の愛知県会議員選挙に当選したことは無上の喜びであった。「河合陸郎伝」にも「陸郎の頭の中にも、この神野新田堤防の雑持管理をなぜ地元負担でやらねばならないのかという疑問があった。県へ出てそれを解決してみたいとも思っていた」とある。入交脩編著「神野三郎伝」には、「かくして、神野三郎は、形式的には神野新田からは切断せられたが、その魂は、逝去の日まで夢寐の間も神野新田を離れたことはなかった。散策に事寄せて運転手三浦道男とともに堤防を巡視して蟹の穴を黙々と塞いで歩いたのも晩年の神野三郎であった」とある。その通夜には多数の神野新田農民が参列し、御和讃を高らかに唱えた。その感動の場面は、妻神野りきの次の歌に活写されている。
五月二日通夜
新治の人人二百御和讃の助韻は高く闇空にひびく