神野金之助翁 頌徳碑

神野金之助重行、嘉永2年(1849)4月15日~大正11年(1922) 、愛知県海部郡八開村江西に神野金平、マツの五男として生まれる。明治26年(1893) 毛利新田の譲渡を受け、神野新田開拓に成功。貴族院議員、明治銀行頭取、福寿生命保険および福寿火災保険社長、名古屋鉄道社長等を歴任。

昭和5年(1930)5月15 神野金之助翁頌徳碑建立。


▶ 昭和5年(初代金之助頌徳碑建立中)

 ・石碑の土台高さまで土盛をして工事をやり易くしている、重機の無い時代の工夫ですね


神野新田開拓百年記念誌より

神野金之助翁頌徳碑

初代神野金之助は、嘉永2年(1849)4月15日に生まれ、大正11年(1922)2月20日74歳 の生涯を閉じた。同25日に名古屋別院で葬儀が営まれた。「念仏院澤西善」と諡(おくりな)された。参会者 約一万人といわれた盛儀であった。「中に最も感動を与えたのは、三河牟呂吉田村の住民600人を代表して、故翁の徳を慕ふ百名の哀悼者が柩に扈して会葬したことであった」と「神野金之助重行」伝は伝えている。

神野新田では、初代神野金之助の七回忌(昭和3年) 十三回忌(昭和9年)十七回忌(昭和13年),二十三 回忌(昭和19年)二十七回忌(昭和23年)に圓龍寺で法要を厳修した。

初代神野金之助の死後8八年たった昭和5年5月15日に神野金之助翁頌徳碑の除式が神富神明社間の現地で行なわれた。神野新田農民の感謝と追慕と崇敬の念の表われである。題字は盛沢栄一の揮毫であった。

「余、壮年ヨリ新田ヲ開拓スル志アリ、毎二思フ、海浜ノ新田ヲ拓クハ、真二国土ノ版図広ムルノ業ナリト」―これは、初代神野金之助が自ら著した「神野新田紀事」の「緒言」の冒頭である。新田開発は国のため、公のためという初代神野金之助の信念の発露であった。 こうした精神によって神野新田の開拓はなされたのである。また、「神野新田土地農業協同組合」発行の「神野新田」(酒井正三郎・小出保治共著)には、初代神野金之助の「一生を改く生活信條は、殆んどこの仏教的信仰より出露しているのであって、これを見落しては、金之助の事業の精神は、到底理解しえられないであろう」と書かれているし、特に「金之助の仏教的悲願を最大限に打ちこんだものは何といっても、神野新田の建設と育成にあった」と述べていることは注目される。そして、その願力にもとづいて、神社、学校、寺院新設の「三策」をはじめ、青年夜学校、青年会、敬老会、請願巡査、長生病院、消防組、公民館などの精神的指導主義が展開された、と説明されているのである。また、家訓に司馬温公の言を用いたが、ここにもその考え方がよく示されている。この家訓は、神野三郎によって豊橋神野家の家訓ともなったのである。

「積金以遺子孫 子孫未必守 積書以遺子孫 子孫未必読 不如積陰德於冥々之中 以為子孫長久之計 此先賢之格言 乃後人之可亀鑑(金積ンテ以ツテ子孫二遺ス、子孫未ダ必ズシモ守ラズ、書ヲ積ンデ以ツテ子孫二遺ス、子孫未ダ必ズシモ読マズ、陰徳ヲ冥々之中二積ンデ以ツテ子孫長久之計ト為ス二如力ズ、此レ先賢之格言、乃チ後人、亀鑑ナリ)


   初代神野金之助翁頌徳碑の建設・・・神野新田(酒井正三郎著)より

動画の画像は謝辞を述べる二代目神野金之助(当時37歳)

  神野新田の日々の生活が向上の一途をたどるにつれて、いまはなき新田の開祖神野金之助にたいする思慕の情は禁ずるを能わず、昭和3年2月には、借地人一同で圓龍寺において神野金之助七回忌の法要を厳修した。

 金之助にたいする感謝と追慕と崇敬の念は年と共に高まり、それは新田開拓37年、金之助死後8年の、昭和5年5月、ついに神野金之助翁頌徳碑の建設となってあらわれた。

 この碑は、新田内の神富神明社境内に建設せられ、同年5月15日、その除幕式が挙行せられたのである。当日、建設者総代が行った報告と式辞とに、その間の事情が

尽くされているから、これを掲げる。

 まず、惣代・石部太之助は次のごとく挨拶した。

 

 頌徳碑の建設概況をご報告致します。

神野新田を開拓せられました故神野金之助翁の恩義に報ずると共に、その御遺徳を後世に伝えたいと存じまして、翁の頌徳碑建設の議が新田内250戸の居住小作者間に起こりましたのは、昭和3年3月でございました。その後新田内水産養殖業者及び新田外の小作者も進んで賛成致しましたので、茲に始めて五百有余の新田借地人一同が一丸となって建碑の準備に着手致しましたのであります。

 そこで建碑委員18名を選びまして、事務の分担を為し、先づ第一に敷地を選定して埋立工事を終え、続いて基礎工事を施行致したものであります。

 碑石は仙台へ、台石は岡崎へ、夫々注文致しまして、着々工事の進行を計ったのであります。

一面、題字は翁が生前最も御親交のあられました渋澤子爵閣下にお願い致しましたところ、御快諾下さいましたが、遇々閣下の御不快の為めに御揮毫が遅れまして、従って工事も遅延いたしました次第でございます。

 又碑文の揮毫は名古屋市の大島君川先生にお願いし、彫刻は豊橋市の中山昌次郎氏に依頼致しましたのであります。而して敷地埋立工事は当新田青年団員の手により、又碑石並に台石の運搬及び樹木の植込等は消防組員の手に依って、夫々奉仕的に行われ、恙なく竣工致しまして、本日茲に除幕式を挙げることを得ましたのは、誠に慶賀に堪えない所であります。是れ即ち翁生前の御高徳に由るは勿論ではありますが、関係各位の御援助と建設者の献身的努力によるものと、深く感謝する次第でございます。

                     昭和5年5月15日    神野金之助翁頌徳碑建設者惣代  石部太之助

 

続いて金之助翁の孫、神野三郎の愛嬢政子の手で除幕され、小川新五郎が次の式辞を述べた。

 

  式  辞

 

 本日は知事閣下並に故神野金之助翁のご遺族を始め、当新田に関係の各位、斯く多数の方々が御多用を特に御繰合せに預かり、遠路態々御来臨の栄を得ました事は、私共の無上の光栄とする所であります。

 我が神野新田の開拓者神野金之助翁の頌徳碑除幕の式典を挙げるに当たりまして、茲に新田沿革の大要と翁の功績の一端を延べまして、式辞に換えたいと存じます。

 抑々神野・冨田御両家の御経営になる我が神野新田は、明治26年4月起工せられ、同29年4月竣工されたのであります。

爾来三十有余年、甞て一度も風水の被害を受けた事のありませんのは、是全く故翁が人造石法を採用せられ、堅牢無比の堤塘を築かれましたからであります。

 斯くて大いに新田の内部を整え、次いで農事試験場を設けて、此の新田開拓地に適合せる農事万般の調査研究を為し、各種の奨励施設を行い、農業倉庫を設けて組合員の利用に供し、病院を建て、保健衛生に意を注ぎ、後年に至りましては、神野新田二人会を創設して、永年貯蓄を奨め、其の基金を補給して小作者の生活安定と共に、子孫の幸福を図り、且つ相互救済の途を講ぜられたのであります。

 明治41年より耕地整理を施行して、耕地の改良と併せて水産養殖事業を起こし、爾来年と共に長足の進歩を致し、其の良好なる成績は一般にも認められまして、此事業が遠近に普及致しました事は顕著なる事実と存じます。宣なるかな、大正10年には当新田内に農林省水産試験場が設置せられ、一躍全国養魚会の一中心地たるの観を呈するに至ったのであります。

 尚お私共借地人の蒙る恩恵的御施設は数々ありますが、就中、前社長故神野金之助翁の夙に墾田・植林・養蚕・牧畜業・農業・産業に尽瘁せられました事は申すに及ばず、我が神野新田開発の為めには築堤当時より内部の整備、並に知力の増進、水産養殖事業の普及等に至るまで、寝食を御忘れになって日夜東奔西走せられたのであります。今日私共借地人が安んじて業務に精励することのできるのは、偏に其の賜であると信じます。

 翁は信仰の念極めて厚く、新田の中央部に円龍寺を建てて、人心の教化を図り、祖先崇拝の念を養い、尚お神富神明社を祀って、国民精神の作興を図り、又学校を興して子弟の教養に努められたのであります。

 斯くの如く翁は私共借地人に対しては、恰も慈父の其子に接するが如く御愛し下さった事は、今尚お記憶に新しいところであります。

 顧みますれば、翁が長逝せられまして早や8年になりますが、地主・借地人間は益々融和しまして、全国に其の比を見ないのは、是皆翁の御高徳の然らしむる所に外ならないのであります。

 茲に於いて私共借地人一同相諮り、頌徳碑を建設して、翁の御遺徳を子々孫々に伝え、以て其恩義に酬ゆるの微意を致さんとするのであります。

 翁の霊永く天地の際に止まりて、我新田を御護り下さらん事を冀うと共に、私共借地人も亦一般の模範として恥しからぬ様互に相戒め、共に努力する覚悟であります。

 以上蕪辞を延べまして、本日の式辞と致します。

                          昭和5年5月15日  神野金之助翁頌徳碑建設者惣代  小山新五郎 

 

 つぎに来賓の祝辞朗読があったが、牟呂吉田村長芳賀保治氏の祝辞中「この新田が出来なかった以前を回顧するに、我が牟呂村は田地が尠なく、ために宝飯郡下地町の水田、遠くは牛久保・花井寺下、東は今の豊橋・羽根井付近、東海道鉄道線の付近、南は高師村磯辺の赤根坂下までの地を耕作していたものが、この新田埋立によって、その遠作を止めることになった」という一説があったが、芳賀は前記のとおり海苔の創始功労者であり、新田開拓以前から当地方の事情に精通した古老であって、金之助との親善関係にあり、神野新田の功徳を最も深く知る人であった。来賓の祝辞が終わると金之助の令嗣当代金之助が感激に満ちた態度で、懇篤な謝辞を述べた。 

 

 本日は当神野新田の借地人多数の皆様の御協力によりまして、茲に亡父の碑を御建設下され、其の除幕式を挙行せらるるに当たりまして、知事閣下初め各位の御臨場を辱うし、私共一家親戚多数御招きに預かり、此の式典に列するを得ました事は、私の最も光栄とする所であります。

 実は当初此の碑の建設の議が皆様の間に起こりましたのは、昭和3年3月頃かと伺っております。私は後日に至って此の御企のあることを始めて耳に致しました時には、其の御厚意に対して深く感激致しました。

 其後当新田の五百有余戸の多数の方々が能く和衷協力せられまして、加うるに青年団員並に消防組員の方々が、奉仕的にこれを御援助下さいました結果、着々工事の進捗を見まして、其の御模様をた承る毎に、只管感謝の念を禁じ得なかったのであります。

 昨今稍もすれば人心軽佻浮薄を伝えられる時に当たりまして、皆様が衷心誠意を寄せらるるの餘り、長い年月に亘りて、日夜御繁忙成るにも拘わらず、聊かも其の労を厭わず、少なからざる資も惜まず、此の新田に関係のあるすべての方々が陰となり陽となって、建碑に御尽力下さいまして、今日其の竣工を見た次第であります。

 ここに斯くも立派に出来上がりまして、碑を仰ぎ見るに就きましても、只今の此の喜びは皆是皆様が或いは精神上、或いは物質上、幾多の辛酸を累ねられた尊き汗と膏の結晶であり、全く先代追憶の発露に外ならなかったのでありまして、故人の霊も如何ばかり泉下に鳴謝せられ居る事かと、私も只管感激の念に堪えない次第でありまして、爰に哀心より厚く御礼を申上げます。

 先代が当新田の経営に永年心を碎き、漸く其の基礎を築きました事は、かねがね承知致して居る所でありますが、先刻皆様より過分なる御賛辞を賜り、且つ此の建碑に御尽し下さいました皆様の御誠意の程を承るに就きましても、只々感激致すのみでありますが、この熱意のあふれは、取も直さず、当新田の円満なる発展の基礎を築くものでありまして、先代の精神も亦茲にあった事を考えますれば、此処の建碑が吾々遺族に対し如何に重き教訓を与えてくれましたかといふ事を思い合わせまして、感謝せずにはおられないのであります。

 今日皆様の真心の籠れる精神的発露によって得た賜物を記念として、皆様と共に吾々遺族はこの心持を何時迄も失うことなく、永久に肝に銘じて、和哀協力、今後益々国家産業の為め貢献すると共に、皆様の幸福増進、延いては当新田の発展を希う次第であります。 

                                                 神野金之助

 

 かくして式は鈴木竹治郎の挨拶で首尾よく閉会された。この日は絶好の快晴で、碑の周囲には幔幕が張り繞らされ、碑前には新田内外の小作者および新田内養魚業者一同よりの供物を奠し、来賓百五十余名、建設者六百余名、その他関係者など総数八百余名の参列があり、近郷近在からも参観者無慮数千人が集まり、新田開拓三十周年祝賀会にも劣らない盛儀であった。

 頌徳碑には次のごとく刻まれている。 

 

 初代神野金之助翁は夙に墾田、植林、養蚕、牧畜等、農事産業に尽瘁し、明治26年、神野・冨田両家の事業として新田の開拓を企画し、同29年、之が竣工を告ぐ。世に神野新田と称す。爾来丗有余年、甞て風水の災害を見ず。之れ全く翁が人造石工事を採用し、堅牢無比の堤塘を築き、外に海浪を防ぎ、内に施設其宜しき得たるに因る。即ち水路を完備し、耕地を整理し、各種の奨励施設を講じ、以て農業の発展を計り、或いは養魚池を設けて水産養殖事業を奨め、又産業組合を組織して資金の運用、貯蓄の奨励に資し、或いは社寺を建立し、風教の刷新、国民精神の振興を図り、高齢者の慰安、青年子女の指導、水火防組合の設置等、翁一として意を用ひざるところなし。今や借地人にして新田に居住するもの弐百五十家、其他の者弐百六十家の多きに至る。今茲翁逝いて8年、労資よく融和して全国其比を見ず。翁の功愈大に、其徳愈高きを加ふ。此恩徳に浴する我等借地人亦翁を慕ふの念更に切なるものあり。茲に於て一同相図り、頌徳碑を建設して、翁の遺徳を子子孫孫に伝え、以て恩義に報するの微意を致さんとす。 

                                                神野新田借地人一同