富田重助翁 頌徳碑

四代富田重助重慶、明治5年(1872)3月15日~昭和8年(1933)名古屋紅葉屋の三代富田重助重政の長男。

重助重政は初代金之助の長兄であり、15歳で富田家に養子となっており、四代重助は初代金之助の甥であるが金之助の養子としたが、三代重助没後にともにい紅葉屋に復籍させ四代重助となり家督相続した

神野新田開拓の資金調達を担い、金之助が亡くなった後は神野新田経営の責任者(神富殖産社長)であった。

しかし昭和8年の明治銀行閉鎖に伴い神野新田を私財提供したが、神野新田に対する思いは大きかった。 名古屋鉄道、明治銀行頭取、福寿生命保険社長等を歴任。 昭和10年(1935)5月19日 富田重助翁頌徳碑建立。



神野新田(酒井正三郎著)より

四代富田重助翁頌徳碑の建設(謝辞を述べる、当時34歳の五代目富田重助

 新田の農民たちは初穂米の献上をつづけてきたが、昭和7年以降中止した。これは土地経営の主体が、明治銀行の破綻と共に変わったためによるのであろう。しかし、神野金之助の十三回忌(昭和9年)、十七回忌(昭和13年)、二十三回忌(昭和19年)、二十七回忌(昭和23年)は間違いなく円龍寺で営んでいる。

 ところで、神野新田の開拓以来、陰にあって金之助の新田経営を助けてきた富田重助は、昭和8年5月急逝した。小作人たちは金之助の先例にならって、頌徳碑を建設することになり、小作者有志・新田関係者一同によって、神富神明社の境内に、鳥居を中央にして、金之助のそれと相対して頌徳碑を建設し、昭和10年5月19日を卜して除幕式を行った。

 当日はまず円龍寺において重助の三回忌法要を厳修し、つづいて神富神明社境内で除幕式が行われた。富田家の遺族をはじめ、各官衛の長官、神野新田土地株式会社の重役、新田関係者、新田小作者など、官民多数が会場にあふれ、はなはだ盛会を極めた。

 題字は従一位勲一等侯爵浅野長勲、碑陰に刻まれた文は次のごとく書かれている。 

 

 富田重助重慶翁は、明治26年、神野・冨田両家の事業として新田開拓を企図せられ、爾来神野金之助重行と力を協せて、専ら之が完成に尽瘁すると共に、新田内諸般の施設を画築し、運用経営皆意を須ゐざるなし。翁の事に当たるや精到綿密、細務と雖も苟くもせず。偉業達成の功、翁の力に俟つ所真に甚大なりと謂うべし。翁、人と為り恭謙、常に誠心温情を以て人に接す。我等も亦た翁を慕ふこと宛ら慈父の如く、境域の中和気終始藹藹たり。翁昭和8年5月をもって長逝せられ、茲に其三回の忌辰を迎えんとす。我等一同乃ち相図り、此地を卜して碑を建て、文を誌し、深く其遺徳を尚び、永く其功績を傳ふ。

 

                                      昭和10年5月    神野新田借地人一同

 

 金之助にならって、農民たちは重助の7回忌(昭和14年)、13回忌(昭和20年)、17回忌(昭和24年)を円龍寺で営んだ。

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神野新田開拓百年記念誌より

富田重助翁頌德碑

 

四代富田直助重慶は、明治5年(1872)3月15日に生まれ、昭和8年(1933)5月15日に61歳で永眠した。「富田重助翁頌徳碑」の除幕式は昭和10年 (1935)5月19日に行われ、題字は浅野長勲侯爵であった。

富田重助重慶の神野新田における功績は、枚挙いとまがないが、「紅葉舎類聚―名古屋・高田家の歴史」(昭和52年1977刊)が特に挙げているのは、まず第一に,新田開拓が採算に合うかどうかの検討であった。これは当初大問題となり、親族の中にも強く反対する人が多かった。「神野金之助重行」には「三河年呂吉田新田を毛利祥久から譲りうけた際、父金平初め、宮原惟義・神野悦三郎・神野清兒等一門の人々は正面より反對し、最初之が紹介を為した菱池の森新左衛門は、痛く金平の忌憚に触れて、一時神野邸へ出入りを禁ぜられた程であった」と書かれている。「紅葉舎類聚」には「毛利新田の話を開いた神野金之助は、慎重の上にも慎重にこの事業の成算を検討した。第一は資金上の問題であったが、すでにこのとき三井銀行東京本店での修業を終えて名古屋に帰った富田重助の分析では、これに要する経費は、開拓に成功すれば決して冒険ではないという判断であった。残るのは建設工事の技術上の問題である」とあり、初代神野金之助の当初の意志決定における富田重助重慶の重要な役割を挙げているのである。ついては,建設資金における活躍であり、「富田重助は名古屋にあって、この大事業を援助するとともに新田の発展に尽力し、とくに建設資金の調達に全力を尽くした」と伝えている。

富田重助重慶は長く神殖産株式会社長として、神野新田経営の最高責任者であった。在任中の重大事にして忘れ得ぬことは、昭和7年3月の明治銀行閉鎖に当り、その債務弁済のため、神野・富田両家の私財を提供する富ことが富田重助および二代神野金之助によって決断され、神野新田の土地建物が充当されたことである。同年7月16日、富田社長は神野新田の小作人に離別の挨拶を行った。その模様は、神野新田土地農業協同組合刊「 神野新田」に詳述されている。

これについて、「紅葉舎類聚―名古屋富田家の歴史』には、後嗣の高田馬助重信の回顧談として明治銀行閉鎖の時も、あれは青木鎌太郎氏らがうちへ来て、長時間の相談になった。でも結局最後に、父が神野新田の土地を提供して収拾することを決断したのですよ」と緊迫した状況を伝えているのである。

この私財提供について、入交好脩編著『神野三郎伝』は「このことは、神野・富田両家が,中京の新興財閥 して、新葉屋以来の暖簾を誇る家柄としては、当然の措置であったかも知れないが、当時の世論は、この法律的責任のない明治銀行の破綻の責任を私財を提供してまで道義的責任を負うた両家の態度に対して、賞讃と同情の辞を吝しまなかったのであった」と述べていることは注目すべきである。

「富田重助重慶の趣味については「茶道、古美術、建築などに格別造詣が深く、これらを通して政財界や文人との交遊が多かった」と「紅葉舎類聚』の序文に書かれ、特に茶道について、同書は「富田重助の茶道の世界」の一節を設け、三井銀行東京本店在動中に、茶道、美術方面への関心がいっそう高まり、美術品蒐集でも有名であった井上馨や三井物産の創始者・益田孝(鈍翁)をはじめとする多く茶人と交際し、名古屋の茶道を全国でも第一流の地位に高め、小堀遠州になぞらえて「尾張遠州」とも呼ばれた四代富田重助重慶の茶人ぶりを伝えている。