▶ 神野新田紀事から
牟呂神富神明社(むろしんとみしんめいしゃ)は神野新田を開拓した神野金之助と富田重助の寄進による創建の3つの神社の内の1つである。
神野金之助が神野新田に入植してきた住民の心の支えとして、また住民の統理を図るため伊勢神宮に勧請し、牟呂神富神明社を内宮、五郷神社(ごごうじんじゃ)と二開神社(にかいじんじゃ)の2社を外宮として、1895年(明治28年)に神野富田両家(紅葉屋財閥)の代表である神野金之助の寄付により創建され、鎮座式は三神社同時(明治28年2月10日)に執り行われた。
牟呂神富神明社の神富は、明治30年に東本願寺(本山)から圓龍寺に授けられた山号の「神富山」に由来するものと考えるが、圓龍寺の山号の「神富山」の読みは「しんぷうさん」と伝わっている。
五郷神社と二開神社は神社が建つ地名を拝したものである。
したがって、牟呂神富神明社の内宮、五郷神社と二開神社の外宮は三位一体の関係である。
左の図は、金之助翁の著書から抜粋(クリックすると拡大します)
▶ 神野金之助重行から
・神野新田紀事は、神社の新設に付いて、神野新田字ソノ割にある本社(後の
牟呂神富神明社)、字セノ割(後の五郷神社)と字会所前(後の二開神社)
を外宮と定めた
・1895年(明治28年)1月1日、伊勢大廟皇大神宮の御霊を奉祀することを定
め、直ちに同月7日をもって牟呂八幡社へ仮鎮座式を行い、2月10日にソノ割
に新築した社殿に遷しまいらせ、うやうやしく鎮座の式典を挙げ、同時に豊
受太神宮をセノ割、及び会所前の外宮へ鎮座の式を行った
・神社の全ては初代金之助の寄付で、ソノ割を牟呂神富神明社と改め、その後
基本財産1千円を寄付とあるので、神富と付けたのは誰かは分かってない
・神野新田の成功式は神社の新設の翌1896年(明治29年)4月15日だが、それ
に先経っ明治28年2月にて神社が創建された。
・神富(シントミ)神明社は圓龍寺の山号と関係があると推測されるが圓龍寺
では山号は「しんぷうさん」と伝えられている。
▶ 県外模範事業視察記から
3つの神社に関する記事の抜粋
・左の画像クリックで拡大、マーカー部分が神社に関する部分です
・漢字と表現が難しいので現代風に意訳したのが下記です
宗教と教育との力を借りるため神社、寺院、ならびに
小学校を建設した
第一に新田内に3ヶ所の神社を新築して内宮、外宮を
奉祀した
▶ 年表
1894年(明治27年)頃、字ソノ割に内宮(後の牟呂神富神明社)、字セノ割(後の五郷神社)と 字会所前
(後の二開神社)を外宮として新築し、伊勢神宮より勧請することを定めた。
1895年(明治28年)に以下の行事を実施し神様を迎えた。
1月 1日 伊勢神宮より伊勢大廟皇大神宮の御霊を奉祀することを定め、勧請した。
1月 7日 伊勢大廟皇大神宮の御霊を牟呂八幡社で仮鎮座する式を執り行う。
2月10日 伊勢大廟皇大神宮の御霊をソノ割の新築社殿(内宮)に遷し、鎮座の式典を挙げる。
2月10日 上記と同時に豊受大神宮をセノ割と会所前の外宮で鎮座の式を行う。
1895年(明治30年)12月16日、圓龍寺が本山より山号「神富山」を付与されたが、この時点で(ジンノ)
姓であったはずだが、シントミと濁点は付いてない。
1915年(大正4年) 神殿の改築と拝殿・水屋・鳥居・常夜灯などの設備増置(神富殖産が負担)。
11月15日 荘厳な神殿の御遷宮式神殿を行った。 境内に杉や檜の苗が植えられ、金之助翁
(本殿に向かって右)と重助翁(本殿に向かって左)が樟をの植樹。
1916年(大正 5年)神富神明社は社格を村社に列ねられた。
1923年(大正12年)神富神明社に社務所が新築寄進された。
1935年(昭和10年)神富神明社の新田の改築拡張と玉垣の新築。